「成仏の種を蒔く」
日蓮(1222-1282)は法華経の弘通に生涯を捧げました。この経典のサンスクリット語の原題は「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ(Saddharma-pundarika-sutra)」であり、鳩摩羅什によって中国語に「妙法蓮華経(Miao-fa-lien-hua-ching)」と翻訳されました。この訳の日本語の読み方が「ミョウホウレンゲキョウ」です。このタイトルは「素晴らしい法の蓮の花の経典」と訳すことができます。日蓮によれば、このタイトルは単なる経典の名前であるだけでなく、経典で説かれている法の表現でもあります。彼はこのタイトルに敬称である「南無(Namu)」を冠し、自身の宗教の主たる礼拝の対象としました。タイトルの日本語は「題目(Daimoku)」です。今日の日本仏教の用法では、「題目」またはその敬称形である「お題目」という言葉は、具体的には日蓮によって解釈された法華経のタイトルを意味します。この意味での題目、すなわち「南無妙法蓮華経」は、通常、聖なるタイトル(Sacred Title)と訳されます。聖なるタイトルは、日蓮宗の仏教徒が唱える定型句でもあります。この場合、聖なる定型句(Sacred Formula)という訳が好まれるかもしれません。ちなみに、「南無」という言葉はサンスクリット語の「ナマス(Namas)」から来ており、「帰命する(Honor be to)」を意味します。
日蓮の宗教の目的は、すべての人々の心に「成仏の種を蒔く」ことによって、彼らを救済することです。日蓮は『教行証御書』の中で次のように述べています:
「此の時は悪世にして穢れたり。多くの人々は法華経を信ぜずして之を誹謗す。我は彼等に南無妙法蓮華経と唱えしむる事によりて、其の心に仏の種を蒔かんと努むるなり。南無妙法蓮華経は法華経の精髄なり。」
彼の布教活動は、日本のすべての人々に対する慈悲から生じたものでした。彼は『諫暁八幡抄』で次のように述べています:
「我は只、日本の総ての人々に南無妙法蓮華経と唱えしめんとするのみなり。恰も母親が赤子に対する慈悲によりて、其の乳首を赤子の口に入れんとするが如し。」
幕府への批判
日蓮は鎌倉時代(1192-1333)の真っただ中に生きました。この時代がそう呼ばれるのは、その間、鎌倉の街が「幕府」と呼ばれる「武家」政権の所在地だったからです。将軍(政府の長)が京都の天皇による正式な任命でその就任を飾るという意味で天皇制は維持されていましたが、幕府が実質的な日本の政府でした。このような政治形態はそれまで見られたことがありませんでした。初代将軍である源頼朝は、日蓮から反逆者と呼ばれました。
源氏は1218年に滅亡し、政権のたづなは北条氏に移りました。新政府の長は執権(Regent)と呼ばれました。初代執権は北条義時でした。
後鳥羽天皇は1198年に3歳の息子に譲位しました。新しい幼帝は土御門と呼ばれました。彼は1210年に弟に皇位を譲りました。新しい天皇は順徳と呼ばれました。1221年、順徳天皇は3歳の息子に譲位しました。
新しい天皇は仲恭と呼ばれました。後鳥羽上皇と順徳上皇は権力の回復を企て、1221年の4月に北条氏に対して挙兵しました。しかし、遅くともその年の6月15日には、鎌倉の軍勢が京都に進軍し、官軍は敗れました。執権の北条義時は、後鳥羽上皇を隠岐島へ、順徳上皇を佐渡島へ配流しました。土御門上皇は陰謀に関与していなかったため最初は処罰されませんでしたが、騒乱の京都に留まるよりは流罪になることを望むと自ら鎌倉に申し出たため、土佐国に流されました。仲恭天皇は廃位され、土御門上皇の9歳の息子が後堀河天皇という名で皇位に就けられました。土御門は翌年、四国の阿波国に移され、1231年にそこで崩御しました。後鳥羽は1239年に配流先の島で崩御し、順徳も1242年に配流先の島で崩御しました。この年、日蓮は20歳でした。彼は義時のことも反逆者と呼びました。『秋元御書』の中で次のように述べています:
「日本には歴史上二十六人の反逆者あり。第一は大山皇子、第二は大石山麻呂、第二十五は頼朝、そして最後は義時なり。最初の二十四人の反逆者は死罪に処せられたり。最後の二人は天皇や上皇を弾圧し、日本の政治の実権を握りたり。」
当時の仏教への批判
真言宗は806年に弘法大師(774-835)によって開かれました。それは密教でした。大日如来(Mahavairocana)は、この宗派によって釈迦牟尼仏よりも深い尊敬をもって礼拝されました。この宗派の密教の修行は他の宗派を惹きつけました。天台宗は密教の影響を非常に強く受けたため、天台宗の僧である慈覚大師(792-862)と智証大師(814-891)は、自らの宗派内に密教の流派を創設しました。日蓮の時代までには、天台宗は実質的に密教と融合していました。
浄土宗(念仏宗)は法然(1133-1212)によって開かれました。彼は1175年に阿弥陀仏に対する新しい信仰を公言しました。彼によれば、私たちは悟りを開くにはほど遠いほど愚かです。救済の唯一の道は、毎瞬阿弥陀仏の名前を呼ぶことによって、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれ変わることです。彼の宗教は瞬く間に日本中に広まり、古い宗派の多くの僧侶がこれに反対しました。1205年、奈良の興福寺から当時の治天の君である後鳥羽上皇に対し、念仏宗に対する抗議文が提出されました。この抗議文の中で、法然の追随者たちの「九か条の過失」が指摘されました:1. 天皇の許可なく自分たちのグループを「宗」と呼んでいる、2. 他の仏教徒を誹謗している、3. 釈迦牟尼仏を礼拝していない、4. 念仏(阿弥陀仏の名を呼ぶこと)以外の修行を嘲笑している、5. 神道の神々を礼拝していない、6. 念仏以外の何も実践していない、7. 瞑想を放棄し念仏のみを唱えている、8. 戒律を守っていない、9. 日本国民を誤らせている。
臨済宗は栄西(1141-1215)によって中国から伝えられました。彼は1154年に比叡山で出家し、天台宗の教義を学びました。彼は天台密教の達人となりました。1168年に天台宗の研究を深めるために中国に渡った際、初めて禅に関心を持ちました。彼の5か月にわたる中国滞在は、禅を学ぶには短すぎました。彼は1187年に再び中国に渡り、名高い臨済禅の師に出会いました。彼はその師の下で4年間禅を学びました。1191年に日本に帰国し、臨済禅を広めました。彼は、禅の力だけがすべての悪を追い払うことができるため、日本の平和は禅宗の教えによってのみ維持されると主張しました。彼は次のように述べました:
「禅宗は文字に頼らざるなり。言葉による表現なしに仏より伝達されたり。経典に非ずして、仏の心の印が我等に伝えられたり。禅宗は文字を離れ、言葉を絶す。人の心の源へ真っ直ぐに指し示し、仏と成らしむ。仏の法が斯く呼ばるるは、それが説明し難き故なり。之が禅なり。法が少しでも説明さるる時、人々はその説明に執着せんが、それは法そのものとは何の関係もなきなり。」
真言律宗は叡尊(1201-1290)によって開かれました。彼は元々は真言宗の僧侶でした。1236年、彼は律宗を復興することを決意しました。彼は関西地方の多くの寺院で律について講義を行いました。藤原定嗣という貴族が1261年に京都の近くに浄瑠璃寺を建てました。1262年、前執権である時頼の甥である北条実時が彼を鎌倉に招きました。時頼を含む北条氏のメンバーの多くが、彼の前で戒律を守ることを誓いました。その後まもなく彼は関西に戻りました。彼の宗派は真言律宗と呼ばれました。
日蓮は『下山御消息』の中でこれらの宗派を次のように批判しています:
「第八十二代隠岐の天皇(後鳥羽)の御代に、禅宗と念仏宗が起こりたり。之は一難去ってまた一難という諺を思い起こさせり。善導は末法においては千人に一人も法華経の教えによりて救われずと言いたり。法然は法華経は投げ捨つべしと言いたり。禅宗の僧侶たちは、仏の真の教えは一度も文字に記された事なしと言いて法華経を軽視す。これら邪見が日本に広まれる故に、梵天、帝釈、日天、月天、四天王を含む総ての神々は我が国を守護する事をやめたり。上皇たちは臣下によりて絶海の孤島に流され、其の島の塵と化し給う。それら宗派の僧侶たちが鎌倉に来て幕府の庇護を受け、真言、禅、念仏宗の新しき寺院が建てられ、古き寺院は顧みられず。多くの災難が次々と起こるのも不思議には非ず。」
念仏は念仏宗の信者だけでなく、他の宗派の信者によっても実践されていました。日蓮は『秋元御書』の中で次のように述べています:
「我は誰よりも嫌われたり、其れは此の国の総ての人々が南無阿弥陀仏と唱うる故なり。彼らは阿弥陀仏を拝し、西方の極楽浄土に生まれ変わらん事を願う。天台、真言、律宗の信者たちでさえ、賢愚を問わず、念仏が最重要の修行なりと考える。阿弥陀仏の御名を唱うる事によりて己が罪を滅ぼし得ると考えるなり。只、我、日蓮のみが念仏は地獄への道なりと言う。また禅宗は天魔の所為なり、真言宗は我が国を滅ぼすべし、律宗は国家の賊なりとも言う。故に日本国の総ての人々は我を親の敵の如く、或いは前世よりの宿敵の如く見るなり。彼らは我を謀反人や強盗よりも危険なりと考える。彼らは我を恐れ、我を悪く言い、或いは我を打つ。我を罵りし侍は幕府より領地を与えられ、我を褒めし別の侍は流罪に処せられたり。我はこれまでに二度処罰されたり。仏教が日本に伝来してより過去七百年以上、我の如く罰せられし者は一人もなし。」
寛容と不寛容
日蓮は時に寛容であり、またある時には不寛容でした。彼は『開目抄』の中で次のように述べています:
「不寛容は寛容の正反対なり、恰も火が水に対するが如し。無知にして道徳を弁えざる人々に対しては寛容たるべし。然れども、邪見を持ちて法華経を誹謗する人々に対しては不寛容たるべし。」
私たちは誤った見解に対して不寛容でなければなりません。彼は『如説修行抄』の中で次のように述べています:
「小乗および権大乗の教えは、仏の滅後二千年間に生きた人々に対してのみ有効なり。我等は末法に入りて最初の五百年間に生きてあり。今こそ法華経を弘通すべき時なり。法華経は純粋なる法、円満なる法、唯一の真実の教えなり。大集経によれば、末法に入りて最初の五百年間において人々は闘争に明け暮れ、仏の正しき教えは忘れ去らる。これらの年には、権教(仮の教え)が真実の教えと誤解さる。今こそ一乗の教えが弘通さるべきなり。権教を批判せよ。我等がなすべきは、邪見を批判する事なり。」
彼は同じ書の中で続けて次のように述べています:
「我は仏の勅命により、此の緊急の時に日本に出現せり。敢えて言わん、我は幸運には非ずと。然れども法王の命令は絶対なり。故に法華経に従い、我は権教の勢力に対し真実の教えの軍勢を起こし、忍辱の鎧を着、妙法の剣を取り、真理の顕顕の弓を引き、正直の矢をつがえ、平等の白牛車に乗り、権教の門を打ち破り、念仏、真言、禅、律、その他の宗派の信者たちに批判を浴びせかけるなり。彼らの内ある者は逃げ去り或いは退き、またある者は捕らえられて我が弟子となる。我は攻撃を繰り返さん。彼らは多く我が友は少なしといえども、我は進軍を続けん。」